父との会話2010年01月07日 23時13分53秒

岐阜の叔母がいよいよ厳しい状況で県立病院に入院中。。。
連日、仕事が終わった後、長森まで見舞いに駆けつけている

約一年前、母と二人、岐阜駅で食事をして、鈍行に揺られて帰ることがあったけど、今日は同じような状況で、父と岐阜駅で食事をして鈍行に揺られた
http://long.asablo.jp/blog/2008/09/08/3751515

『父と二人、外で飯を食って、酒を飲むこと。』

私が学生時代は一人暮らしをし、社会人になってからも親元を離れ、割と早く結婚して子供も出来たので、また父が大病を患ったこともあり、ありがちな父と子のそういう状況は今まで一度もなかった。

 それが今夜期せずして、何の因果か母のふるさとである岐阜で実現した。最初で最後になるかもしれないなあ、と感じながらも、父との会話の一言一句を味わった。

 今まで断片的には聞いていたけど、時系列で体系だって聞けたことのなかった、父の仕事歴。

終戦から数年も経たない混乱の時代、今宮工業高校夜間部に通学中から始まった丁稚奉公から、勤務・独立・倒産・勤務・再独立・事業譲渡・再々開業・法人成そしてソフトランディング~

 当時の大阪の街々の様子、駅の様子、物価、得意先、商材、仕入先、月商、商慣習、失敗談、母との恋話、聞きたいことが止め処なくあふれ出した。ノートを出して、全部メモしながら、父を質問攻めにした。

 父がたどってきた道を、しっかりと知り、きっちりと記録に残すことが
、人生の折り返し地点を過ぎている自分にとって必要なことだと前々から思っていたので、本当に良かった。
 
 仕事の話はさることながら、「羽振りのいいときは宗右衛門町でブイブイいわしてた。」と武勇伝を語るしわくちゃのおじいさんの笑顔は、孫を見るときのそれより生き生きしていた。。。

 良くも悪くも、俺はこの人の子供なんだなあと、実感した今夜は
人生の中で、忘れられない日になるのだろうなと、しみじみ感じた。